広島地方裁判所呉支部 昭和43年(わ)124号 判決 1970年5月29日
主文
被告人らはいずれも無罪。
理由
本件公訴事実の要旨は
被告人らは在日米軍の弾薬輸送阻止を目的として、約五〇名の学生らと共謀のうえ、これと共同して
第一、昭和四三年七月二一日午前九時二八分ごろから呉市広町所在国鉄広駅構内の二番線線路内に入り込み、隊列を組みシュプレヒコールを繰り返しながら同駅三番線線路内まで約七四メートルの間蛇行進などをして、もってみだりに鉄道用地内に立ち入り
第二、在日米軍用弾薬を積載した同日午前九時四七分発南小倉行六七一貨物列車の出発を阻止すべく同九時二九分ごろから約二〇分間にわたり、右列車先頭機関車の直前約二、三メートルの進路軌道上に立ちふさがり、あるいは座り込み「米軍弾薬輸送反対」などのシュプレヒコールを繰り返して同列車機関士らに対し威勢を示し、その結果約一〇分間同列車の運行を遅延させ、もって国鉄の輸送業務を妨害し
たものであるというのである。
検察官提出の各証拠によれば、その外形的事実はすべてこれを認めることができるし、被告人らもあえてこれを争わず、その存在を自認しているのであって、本件の争点は専ら被告人らの行為の正当性如何に存する。
検察官は、被告人らの本件犯行はその動機がかりに正当であったとしても手段の相当性を欠き、社会秩序を著しく撹乱するものであるから到底容認することはできない旨主張し、被告人、弁護人らが本件に憲法問題あるいは政治問題を持ち込むことは徒らに審理を紛糾せしめるにすぎないと非難する。
しかし手段の相当か否かは、動機、環境との関連において論ずべき事柄であり、本件現場において若干の混乱が生じたことは認められるとしても、それが警察強制の対象たり得るかどうかは格別、それだけでただちに刑罰を科すべき犯罪と断定することはできない。もしそうでなければ当然に混乱の発生が予想されるような交通機関の労働争議あるいは街頭における集団示威運動は、憲法の保障にもかかわらず、すべて処罰の対象とされるであろう。
そうして司法裁判所が政治問題に介入することは三権分立の建前を紊すとの所論は傾聴に値するとしても、本件が被告人らの私利私欲に基づく犯行ではなく、ひたすら日米安保紛砕、米軍基地撤去、米軍弾薬輸送阻止などの政治目的達成のための反権力闘争の一環として敢行されたものであることは検察官ら主張するところであってみれば、好むと好まざるとにかかわらず必要最小限度において政治問題に触れることもまたやむを得ないところである。
そこでまず弁護人らが極力主張する「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力および安全保障条約」(以下単に新安保条約という)の違憲か否かについて考えることとする。
弁護人の右主張は、本件弾薬輸送は「新安保条約第六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」第七条に依拠し、米軍が鉄道営業法による国鉄の役務を利用するものと解せられるが、右新安保条約は日本国憲法前文並びに同九条に違反するから同法九八条一項によりその効力を有しないものであり、在日米軍の存在は否定されなければならないものであるから本件弾薬輸送などは何らの法的保護にも値せず、もとよりこれを正当な業務ということはできないから、これを阻止することをもって違法となし得ないのみならず、かような爆発物の輸送は多大の危険を伴うものであるから、本件弾薬輸送はそれ自身国民の生命身体及び財産に対する不当な侵害というべきであって、被告人らの本件所為はこれに対する正当防衛と解すべきであるというにある。
要するに弁護人の右主張は、新安保条約の違憲無効を前提として被告人らの行為の正当性を主張するのであるが、周知のとおりわが最高裁判所は昭和四四年四月二日同条約の違憲無効を主張する上告論旨に対し、さきにいわゆる砂川事件についてした判示を受けて、「(かように)主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断をするについては、司法裁判所は慎重であることを要し、それが憲法の規定に違反することが明らかであると認められない限りはみだりにこれを違憲無効のものと断定すべきではない」といい、さらに「新安保条約は憲法九条、九八条二項及び前文の趣旨に照らして違憲であることが明白である、とは認められない」と判示している。
裁判官は憲法及び法律にのみ拘束されるのであるから、最高裁判所の判決といえども当該事件に関しない限り下級裁判所を拘束するものではないが、憲法八一条において「一切の法律、命令、規則または処分が憲法に適合するかしないかを決定する終審裁判所である」と定めた最高裁判所が憲法についてした判断は尊重されなければならないこと当然であるから、新安保条約の違憲無効を前提とする弁護人の前記主張はこれを採用することができない。
しかしながら、また当裁判所は、前記最高裁判所の判決に鑑み、新安保条約が憲法に適合するか否かは未だ確定されていないものと信ずるのであり、その故に同条約の違憲法効を主張する被告人らの本件行為に正当性を認める余地が多分に存すると考える。
すなわち、前記判決の引用する昭和三四年一二月一六日の最高裁判所大法廷判決は、いわゆる砂川事件において当時の旧安保条約の違憲か否かの問題に対し「(右条約が)一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであって、それは第一次的には右条約の締結権を有する内閣及びこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきもの」と述べているのであって、その趣旨は合憲違憲の終局的判断は憲法九六条に定める如き国民投票にまつべき旨判示したものと解せられるからである。
蓋しもしそうでないとすれば、前記判文中の国民の政治的批判とは国会議員選挙を指称することとなるであろうが、選挙制度は代表者選出のために設けられたものであって、各種の政策、意見さらには地方的利害など複雑な諸要素に支配され、到底特定の事項に関する国民の判断が示されるとは言い得ないからであり、かくては同判決中の小谷裁判官の少数意見にある如く「一見極めて明白な違憲無効とはひと目見てすぐわかる違憲無効の意と解されるが知能をあつめ日日をかけて締結し、衆智によって承認された条約にひと目見てすぐ判る違憲無効のような瑕疵が果してあるであろうか。ひっきょうそれは違憲審査権に対する自慰的な言いわけの言に外ならないと考えられ、究極するところは条約に対しては違憲審査権は及ばないとしたものと同一に帰着する」し、さらに「右条約が主権国としてのわが国の存立の基礎に重大な関係を持つ高度の政治性を有する」が故に違憲審査権なく、通常選挙による批判をまつのみとすれば、条約に限らず法律のうちでも国の存立に重大な関係を持ち、従って高度の政治性を有するものは数多くあること言をまたないうえ、条約は内閣が締結し国会が承認するのであるが、法律もまたこれと同様であるから、この場合も違憲審査権の行使が許されないこととなり、要するに「違憲審査権は立法行政二権によってなされる国の重大事項には及ばないとするもの」(前記少数意見)であって、かような解釈は「わが憲法の指向する力よりも法の支配による民主的平和国家の存立理念と右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命に著しく背馳するものであることは明らか」(同意見)であるからである。
従ってかように国の存立に重大な関係があり、しかも高度の政治性の故に司法審査に親しまない新安保条約などについては、主権を有する国民が自ら直接に、換言すれば国民投票によって明示の判断を下すことにより、始めて国の基本法である憲法の不変性を守りこれを不抜のものたらしめ得るのであって、前記判断の趣旨もここに存するものと解せられるのである。
そうだとすれば、新安保条約はもとより旧安保条約についてもその適憲違憲の終局判断は下されていないわけであって、将来においてこれが違憲無効とされる可能性も少なくないのみならず、いわばその成否未定の選挙期間中ともいえるからその判断の過程において主権を有する国民としての被告人らが自己の意見を発表し宣伝することはまさにその権利であるといわなければならない。
そうして核戦争による全人類絶滅の危機がいまなお存続している現状において、しかも地球上最初に原子爆弾による惨禍を蒙った広島の住民である被告人らが、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため日本国において施設及び区域を使用することを許され(新安保条約六条)たはずの米軍の行為によってわが国に「再び戦争の惨禍をひき起こす」(憲法前文)ことの危険を確信する以上新安保条約の違憲を主張し、これに基づく行政協定により国鉄が実施する本件弾薬輸送に反対し、抗議することは当然であって、憲法一二条が「この憲法に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によってこれを保持しなければならない」とあることからすれば、むしろその義務であるとも言えるのではなかろうか。
被告人らの本件行為の動機が正当であるとしても、これに基づくすべての抗議行動が許されるというわけでないことはいうまでもない。
すなわち、かりに新安保条約が違憲であっても、それが適法に効力を失うに至るまでは「条約はこれを誠実に遵守することを必要とする」(憲法九八条二項)のであるから、在日米軍の構成員の生命身体もしくは財産等に危害を加えることなどが許される道理はないし、本件弾薬輸送に対し抗議の意思を表示することはその権利に属するからといって、武器その他を用いなどして実力をもってあくまでこれを阻止しようとするならば、それは社会秩序を著しく紊すものであり、力をもって法の支配に代えようとするものとして、ひとしくわが憲法の理念に反するものといわなければならないのである。
証拠によって認められる被告人らの本件阻止行動は、線路上における蛇行進、座り込みのみに止まり、いわゆるゲバ棒、火炎びんなどは全く用いられず、一回の投石すら行なわれなかったことが明らかであり、その参加人員も漸く五〇名に過ぎなかったのであって、このこととさらに本件弾薬がそもそも米軍用船で輸送され、北九州市門司港に揚陸されるはずのところ、所在の労組員らが一致してその荷扱いを拒否したため、転じて呉市広港に回送され、同地で陸揚げされて再び北九州に鉄道輸送されることとなったものであることは当時一般によく知られていたところであり、これについては検察官申請にかかる証人である当時広駅輸送総括助役であった沖永利雄すらその証言中で本件弾薬輸送は好ましくないと思っていたとか、当時広駅においても本件弾薬輸送に反対する集会が開かれたなどと述べていること、また約一年前東京都新宿駅で発生した米軍タンク車爆発のような偶発的事故の発生が絶対にあり得ないとは断定できないのみならず、かりに本件弾薬が輸送中爆発したとすれば、その惨害はまさに恐るべきものとなったであろうことは容易に推認されることなどをあわせ考えると、被告人らの前記所為は、憲法二一条の保障する表現の自由の範囲を多少逸脱するとしても、その行為の態様は社会通念上なお相当と認められるのである。
そうして本件により生じた被害としては、運行を阻害せられた六七一貨物列車は、前記沖永証言によれば、米軍弾薬を積載した貨車一〇両と保安上その前後に連結された空車、緩急車計八両のみで組成されており、他に直接累を及ぼすことがなかったと認められるうえ、被告人らの本件阻止行動によって同列車の運行が約一〇分遅延したとはいっても、客車と異なり貨物列車は各駅での待時間が長いので、次の停車駅である呉駅などの操車時間に吸収せられ、その後の運行には殆んど影響がなかったことがうかがわれるのであるから、国鉄の輸送業務が被告人らの行為によって妨害されたとしても、その程度はまことに軽微であるといわなければならない。
そうしてみると被告人らの本件所為中、威力業務妨害の点については、行為の動機、態様及び結果のいずれについても社会通念上相当と認められる範囲を超えず、実質的違法性が微弱であるから、いわゆる三友炭鉱事件に関する昭和三一年一二月一一日の最高裁判所判決の趣旨に照らし、未だ刑法二三四条の構成要件を充足しないものというべきであるし、鉄道営業法違反の点については、本件阻止行動が正当な動機に基づくものであり、かつ他に適切な意思表現の方法がなかったものと認められるから、その立入につき正当な理由があったものというべきである。
以上の次第で被告人らの本件所為はいずれも罪とならないものであるから刑事訴訟法三三六条に則りここに無罪の言渡をする。
(裁判官 富川秀秋)